学歴不要論というものが度々話題にあがるが、私の意見は学歴は少なくとも現時点では必要だと考えているから、その理由を書いてみたい。
学歴不要論者の言うところによると、「今の世の中、大学に行かなくとも何でも学べる。」ということのよう。恐らく彼らの念頭にあるのは所謂文科系の学問について言っているのだと信じているが、その真意はよく分からない。私は専攻分野に限らず学歴は必要だと思っている。学歴不要論者を具体的に名指しをするのは憚られるが、ここで注意すべきなのは彼らが学歴の力を使って今の立場を手にした可能性があるということである。私の知る限りで学歴不要論の学歴を調べてると以下の通りである。
- M氏 東京大学理学部卒業、同大学法学部卒業、同大学理学博士
- D氏 慶應義塾大学理工学部卒業、理工学研究科修士課程中退
- H氏 東京大学文科Ⅲ類中退
時代が違うとはいえ、学歴を不要だと主張する彼らの学歴は、日本社会において十分すぎるほど高学歴である。日本の大学の特徴として、入学難易度が高い一方で卒業は比較的容易であるから、入学難易度が高い大学に入学できたことが実質的に基礎的な学力や地頭のエビデンスとして強い訴求力を持つ。つまり難関大学を中退している事実は、学歴としては高卒と同等であるが、それと同時に個人の高いポテンシャルを強く示唆する。もちろん正式に大卒資格が求められる場面では、この示唆は何の役にも立たないのは事実であるが。
何が言いたいかというと、彼らが知名度もなく何者でもなかった時、学歴なくして同じ人生を歩めたかというとかなり怪しいということである。例えば平均的な高校を卒業し、その後に脳科学を独学で学んだとして、脳科学者を自称することはできるだろうか。メディアに取り上げられ、レギュラー番組を持ち、本を執筆するまでになれただろうか。これに限らず、起業で投資資金を集めるにしても、何をするにしても、学歴というものが個人を有利な方向に導いたことは否定できない。
我々は暇ではないから、何かしらの意思決定をする時、他者評価というものを重要な参考情報として使っている。口コミは卑近な好例だと思う。外食や商品購入の際、日常的に私たちは見ず知らずの第三者の評価でさえ、かなり重要な参考情報として参照している。本来であれば、調査可能な範囲で広く網羅的に対象を調べ、それらを比較することで自らにとってベストなものを選ぶのが良いのかもしれない。ただ現実にそうしないのは、我々の時間が有限であり、1つ1つの意思決定にそれ程コストをかけられないからであり、仮にコストをかけたとしても最良の選択ができる保証など何処にもないからである。
学歴もこれと本質的に同じであり、個人に対する重要な他者評価として機能している。残酷な話かもしれないが、誰もがあなたを深く知ろうとしてくれる訳ではない。あなたに対して高い解像度でものを見てくれるのは、それこそ家族くらいのものである。そして、その他大勢の他者は、あなたという存在をものの数十秒でカテゴライズし、大雑把な理解であなたを評価する。このような社会システムの中で、不憫な思いをしないためにも、学歴は持っていると有利な要素の1つだと考えている。
私は大学を離れて数年経つから、もう既に学歴というチケットは不要かつ効力を失いつつある。ただ今の生活や立場を得ることができたのは学歴のお陰であると確信している。
私にとって学歴不要論者は、親元から独立し成功した途端、自らの能力と努力を顕示し、親や周囲への感謝を忘れている傲慢な人間と重なる。